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通信
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                              盆地蛙通信                                              2005年8月号
 都城  三股  山之口  高城  高崎  山田  一市五町の仲間達    
             こんちは!どげんな 元気な! たまには田舎に帰っきゃん。! 
このページは、盆地周辺の出身の方の近況等を掲載する、みんなの通信広場です。また、田舎の懐かしいところがありましたら、皆様のご要望にお答えして、蛙ぼんちがそこを訪ね、簡単なルポを報告する場でもあります。他に知れたくない時には、メール等でお知らせします。
投稿規則:形式、内容は何でも構いませんが、個人的誹謗等は掲載いたしません。また、政治的意見等は歓迎ですが、選挙出馬予定の人、現に自冶体等の選良、要するにページにて商売、自己を利する内容等は掲載いたしません。 それ以外は詩、歌、随想、乱文、小物語、現在お住まいになっている地方の情報等全て掲載いたします。
 本当は、掲示板を利用した方が広場には便利なのですが、過去の経験から、無責任な投稿や、破廉恥な広告等がちょくちょく散見されました。宜しくご理解下さい。
*投稿方法: 
手紙です。
*必要記載:
@〒住所 A氏名(掲載は匿名できます) B電話 Cメールアドレス(お持ちの場合。但し、一般メール限定です。) ホットメール、ヤフー、ニフテー等の無料サービスは不可です:責任所在が不明で、不埒な広告が主ですので。又、広告バナー貼り付け、商い関係のリンク等は一切行っていません。
  
必要記載は厳守といたします。なおご投稿いただきました原稿等は返却しませんので、コピー等されてからお願いいたします。また、知りえた情報等は広場以外の連絡、商い等へは一切利用いたしません。それでは、どしどし面白い、悲喜こもごも、こころの歌などお寄せください
・また県内在住の方はもちろん、盆地地域出身以外の全国の人々もどしどしご投稿下さい。
*投稿先: 電話:0986−22−0823  
      : 住所:〒885−0071宮崎県都城市中町13街区10の2号
      : 氏名:福原隆治(俗称:ぼんち蛙) 
緑の山を広めよう!
既報:04-1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/05-1/2/3/4/5/6/7/9
通信主旨 現在、わたし達の周りには、多くの情報が流れ、また容易に手に入りますが、よく気をつけていかなければ、その他大勢として知らずメデイアの提供する情報を鵜呑みにしがちになります。 しかし残念ながら、普通に生活する人々が情報を自ら入手することは困難です。 ならば、多くの伝からわたし達が主体的にその背景と真意を探り出し、より真実を知る努力をしていかなければと考えます。 そいういう訳で、この通信ページが自由な人の考えのきっかけになればと思います。 
                                                             ぼんち蛙 (2004年1月6日号より)
 
高千穂之峰。
2005年8月号盆地通信
カエロかな〜カエルのよそおかな〜
2004年1月4日PM:8:00開店
カエロかな〜カエルのよそうおかな〜
教育基本法 日本国憲法 熱情・輝き・敬愛(老) 人々にとって、今もこれからも力強い指針であり、普遍の心が息づいています。人の歴史の多くの経験から自ずと生まれたきた言葉があります。言葉が他者を排斥する時代へ後戻りすることは、避けなければなりません。当たり前のいい言葉をどんどん語りましよう。    
                  8月31日(水)午後04:15     

              薄曇の一日です。
             時折、小雨が降ったりして、打ち水の代わりになっています。
             きょうあたりは、選挙カーは、他のところを回っているのか静かな街となっています。
             広場では、恒例のコットンハウスあぶあぶの<端切れ市>が開かれています。
             さっきちょいと覗いて見ました。雨模様のせいかいつもより品物の残りが目に付きました。
             マダムに、少々客足が鈍いですね、と挨拶しました。そこは肝っ玉母ちゃんです。
             いや、出す品物が少なかったからよ、と笑顔が返ってきました。
             どこまでも、前向きな商人の心意気です。
             今の時間に、また雨が降りてきました。
             夕立というには、おとなしいぱらぱらとした雨足です。


             夏の後先 2005年8月30日(火)昼

             真夏の夢 2005年8月30日(火)夜
             


                  8月30日(火)午前10:45 2号

              己がその立場になると、どうもその言説が何時も異なるのは、
             この人の癖らしい。
             昨日の討論を、今朝方、たまたま少し見ましたが、それを実感しました。
             二つに一つの単なる黒白を強引に求める選択を強要し、挙句の果てに
             意味の無い選挙を打って出た人です。問答無用の姿そのものです。
             それが、他人に税関連の事柄を問われ、突っ込まれると、その言いざまが
             おかしげな矛盾の答えとなる次第です。
             曰く、こうしたTVの前で、問題を、二つに一つとする問いかけは如何なものか、
             といった言である。どこのご本人かと、あっけに取られた人々も多かったことでしょう。
             ま、本人に言わせれば、政治の摩訶不思議、非情さと、言ったところなのでしよう。
             曲がりなりにもリーダーにしてこの言ですから、自国の政治民度がどのくらいかを
             良く知らしめてもいました。


                  8月30日(火)午前00:40    

              不思議な言葉の使い方である。
             この人の言う民は、有力経済団体のことであるらしい。
             これまでの官の不明瞭な、人々のお金の使い方は、少しも明らかにせず、
             その膨大なお金を、言うところの<民間>に渡せば自由な証券市場の賑わいで、
             自国経済が活性化するとの思いであるらしい。金持ち父さんの民営奨励の話です。
             相棒政治団体にいたっては、改革によってコスト削減の推進が一段と進むとの弁である。
             どうして、政治献金汚職など少しも詳らかにせず、コスト削減と言えたものである。
             最大の削減は、どこにあるのか普通の庶民には良く分かっています。
             人殺し演習に、たった一日で、凡そ三億五千万円の無駄金が使用されたそうだ。
             そんなことも見逃す、さびしきコバンザメ団体であります。
             
              信用をつくることは難しいことですが、それを壊すのは一瞬です。
             これも、企業理念がしっかりとスタッフに浸透していないことのせいかもしれません。
             己の仕事の使命を忘れた行動にあったことでもあります。
             ここの報道機関に限ったことでもないですが、多くの意見を反映させるといいながら、
             核心、とりわけ<シンジツ>のぼかしの多さです。公平と言う目くらましです。
             たしかに新聞メデイアは、その購読料にその存在基盤があるわけですので、
             多様な購読者(視聴者)の意見、考え、思考のありようを慮って、記事が編集されていく
             ことになるのが当たり前になっているのでしょう。
             それが、少なくとも気骨ある伝達にいたってもそうですので、昨今の自国メデイア、
             出版文化に至っては如何せんとの感が、とみにします。
             公平、公正、の言葉は、良く弁えないと、誤れる格好の隠れ蓑になることです。
             それゆえ、より真実に沿った報道、そのための真摯な記事取材、行動が求められる訳です。
             本当の事、事実、真実を、人々に知らせなければならないことを使命とする、ジャーナリズム
             本来の心を今一度問い直してもらいたい。
             真実を言うのに、畏れるものは少しもありません。それをボカシタ言葉は公平でも、公正でも
             なんでもありません。ただの追従です。
             
              夏の末とは言え、まだ怪談の時節なのでしょう。
             時間のボカシが、ここにも過去を美化したい思いがあるようです。
             どうして、正しい事であったと言えるのか不思議な道学先生なる人の動きです。
             或いは、責任の言葉の正体を明らかにすることになるのかも知れません。
             責任を自らに負うと言う姿の傲慢さが、多くの人々の命を奪った国体に繋がること
             の証でもあります。
             時の為政者は、負う者でなく、人々に尽くす者です。人々につくしてこその負いであります。
             物言わぬ人々の口惜しさを一体どのように覚えているのか、その悲しさを果たして
             自覚しているのか、とてもそのようには思えません。
             一人物の贖罪と、その国体の弁護の思いが、歴史を粉飾するかのようです。
             蛙の(あるいは、皆さんの)特攻隊で死んだ叔父と、艦船で戦死した叔父、その二人の
             無念を思うと、その一途な青春が、まだこの世に迷って漂っているのを強く感じます。
             正直に、自己の時間を見つめ、それが人々にどのような時間であったのかを、一人の
             人間として考え、顧みることでもあります。


             白い月 2005年8月28日(日)
              
                  8月26日(金)午前00:30

              大人が、真面目に事の裏を粉飾して、事実を違った真実に仕立てる
             言説、論壇なる仕事場があるのも、妙な時世となったものです。
             もっとも、こうした例は昔からあることですが、近ごろはとみに多く感じられる
             ようです。
             若い教授なる人物が指摘したこと等、ことさら指摘等なくとも、普通の人々は知っています。
             そのTV言論世論世界に知らず棲みついた教授なる人の民度でもあるらしい。
             要は、まつり事のリーダーが言行一致にあるか無いかの問題です。
             リーダーが、反省し、しかもさらに突っ込んだ60年の節目の、問い直しであるメッセージで
             あったのに、メデイアがあまり報じていいないとの、にこやかな憤慨である。
             可愛い姿でもあります。その人気コメンテーターでもあるらしいメデイアの常連教授の話
             など、真面目に人々が信じるだろうか。
             この現在の自国のリーダーをはじめ、戦後歴代トップの言葉が、いかに付け焼刃なそれで
             あったことかを、重々知らせれていることです。つまり、自国トップの言葉には、真からの
             反省、戦後ケジメがこれまでなかったことに、重大なまつり事の過失があったわけです。
             その現実を、いつも見過ごすのが、政界を含めたメデイア、言論なる場で生活する人々の
             風潮でもあるようです。しかも悪意の無知ですから、恐ろしいことでもあります。
             言行一致を真面目に実行する人の少なき世です。
             しかも、自国の民には知らさずに、戦に加担し、他国の金儲けの約束事のために選挙を
             行い、歴史の人の寸言を、滑稽に利用するまつり事にあるひとです。

             民営化とは、証券市場活性化にはあらず。まして企業専横の自由の場にもあらず。
             民の言葉の響きのよさに、本来言葉が持つ庶民の言葉の意を弄して、民営を押し付け、偽装しないことだ 
                なあ熊さん ほい 八っあん 玉虫色はいけねいや 


             
                  8月25日(木)午後09:10       

              改革云々と掛け声がいたるところで流れています。
             それを支える利権構造、組織図は一向に変わるどころか、
             相変わらずの旧態依然とした寸劇、茶番劇が演じられているようです。
             一つの例をとるまでもなく、各サムライ(士・師)組織の団体は、己の存立に関わる
             法改正等に影響力ある先生方応援のため、その組織、その支部ごとに時の
             政治権力団体推薦のお墨付きを頂いた先生候補応援に懸命のようです。
              情けなき動きです。またつまらぬ政治団体中央会、或いは政治連盟(仮称)なる、
             本来の<士・師>組織活動とは異なる、動きをする別会もあるのですから、何を目的に
             勉強して資格を取得したのか、不思議な大人の徒党集団でもあります。
             人に言われることでもない事柄です。自分の生きかた、考え方でいけばいいと思います。
             また、そうした名簿を、こうしたときに利用する政治団体組織の都会・田舎の運動員の
             厚かましき顔が浮んでいきます。
             
              本当の事、あるいはそれに近いことを明らかにすることは、大事なことです。
             それが、重大な報道、伝達のありかたを基準にすればなおさらです。
             裏で勝手な事柄を行ないながら、それが明るみに出てからの右往左往振りを
             、ずーっと見ていますと、その権力の力をかざす団体、そこと隠密に繋が残るらしい
             報道機関幹部の言葉、反論等からして、ますます圧力(人によっては、自主的云々)
             の事実、存在を証しているようです。
              問題は、その事実が当事者以外の週刊誌に、つまり商いに利用されたとの様相に
             あることだと思います。だが、誤ってならぬのは、言論に対する力の隠蔽工作<アク>
             が厳然としてあったことです。
             記事の漏洩と、力の隠蔽の根強い動きと、どちらが人々にとって重大なことかが、
             判断の目安でもあります。
              政治権力は、いつも鵜の目、鷹の目で、言葉を己に都合のいいようにしたがります。
             ジャーナリズムの、政治権力に挫けぬ真摯な報道姿勢と、その倫理のあり方ももう一度
             心されてしかるべきものです。
             そして、言葉は、いつも知らぬ人の側に居続けることが大事なことです。

              まあ、それにしてもこの局は、かってその温かみある人柄で人気を博しながら、
             時の力の選良となった人を出し(もちろん視聴料の支えによる番組による)、その
             伴侶の人にいたっては、かっての愛国婦人翼賛会の襷掛けご婦人宜しく、勇ましい
             考えを平気で言う、ウタのお人でもありました。
             近いところでは、まつり事官僚のスポークスマンとして、その考えを披露されていた
             お人もいました。
              名をブラウン管で売るか、片や国家官僚として才をヒラメかすかが、政治屋への
             第一歩の流れであるのも、自国の普通の姿になって久しいようです。もちろん、
             世襲政治は、当たり前のごとく続いています。曰く、その育ちの良さ、筋の良さから 
             二代目、三代目は当たり外れがないそうだ。

        
              おっさん 施行細則が、基本則を、我が物顔に踏みにじりだしたらおしめえいよ


       
                  8月20日(土)午前10:40  2号

              自然にそなわった、人の身体の治癒力、筋肉と骨格のバランスの妙を
             、あらためて覚えました。
             午前中、整形外科で、このところ痛みのとれぬ胸部を診て貰いました。
             蛙は、せいぜい筋肉痛、悪くてもあばら骨にひびが入った程度であろうと
             、自己診断していたのですが、レントゲンによって骨折していたことを、
             知りました。
             先日、お墓の掃除の折、石段で足を滑らせ、咄嗟に体をかわして、頭部を
             守るため横向きに倒れたのですが、その時に胸を強打しました。
             小指の打ち身による腫れと痛みは、激しかったのですが、その時点では、
             胸部の痛みは、あまりなく、ときおりピリッとする瞬間的激痛だけが残りました。
             翌日も、指の痛みはあっても、胸のそれは同じ瞬間的なそれでしたので、
             たいしたことはなかろうと、46年ぶりの登山となった訳でした。
             でも、そうした自己診断がおおいに、後の痛みの伏線となったと、医者に
             言われました。昔から、胸の一、二本くらいの骨折など、しばらくすれば、
             治癒してくるものですが、人間の回復力には感心させられます。
             蛙にも、ひと様並の体力を与えてくれた、母の命に感謝するとともに、
             そそろそろ、年齢も考えた養生をしなければと、いった今朝の思いでした。



                  8月20日(土)午前00:50    

              こう言えば、こう言う、人にとっては長い時間の間には、ずい分と
             同じ言葉、言い回し、箴言等があります。
             そうした過ぎた人々の言葉などをもって、その時々の事象を評したり、
             反論の弁に確証をあたえる道具として利用さるのも、世間では普通の
             ことのようです。ま、過去の名に力を借りるといった類なのでしょう。
             
              秋水が、薄暗い鉄窓の中で、最後の著を記していた夏は、
             どんな気候だったのでしょうか。絞首刑になったのが正月ですから
             あと六ヵ月の命しかなかったことになります。
             著書そのものは、既に逮捕される以前から書き始められていたとはいえ、
             推敲等といった贅沢な時間、史料の確認、等はとても出来る状況になかった
             のですから、命あらばこその状態での記しであったことでしょう。
             彼の述べたことが、単なる基督批判(人によっては天皇制批判)でなかった
             ことは、小冊子を読めば直ぐに理解できます。
             かれの置かれ時代、さらにその卑近的鉄窓の状況を、人間としての彼自身の
             生に対する覚悟を思う時、少なからず命への希望をまだ捨てていなかったのかも
             知れぬと、思えてもきます。彼も人の子です。当時、激しく燃え上がった
             基督主義者に対する、偏狭な国粋主義者の非難、批判を少しも意識しなかった、
             とは思えません。己の著があるいは命への希望とならんか、といった思いが
             ちらっと切羽詰った場所において起きたかもしれません。
             こういったからといって、彼の思想、信念が揺るぎにあった、ということでは
             ありません。人は、常に確固たる思いと、生き様にあるわけではありません。
             大いなる迷路の中で、各自瞑想して歩んでいくものだと、思えます。
             あまりにもより本当(シンリ)に近い事を言えば言うほど、掟(秩序・常識)から
             葬り去られることでもあります。

              チャラチャラした、今日の政治の流れを見ていますと、人のための政治とは
             一体なんだったのかといった思いが強くなります。
             
             
             
                  8月17日(水)午前00:10

              日替わりしたましたが、昨晩、遅い夕飯を、TVを観ながら済ませました。
             ピアフの愛の賛歌が流れていました。良い歌です。
             後で、CDでもう一度聞き直しました。もちろんエディット・ピアフ本人の歌です。
             自国で賛歌がヒットしたのが1959〜60年頃とのことでした。
             蛙が、高校二、三年のころです。
             1960年は、樺美智子さんが、圧死しました。
             また、浅沼稲次郎が刺殺された年でもありました。
             その同じ日に、プロ野球では、太洋球団が初優勝しました。
             そして、若き誠実な作家は既に有名な書き手となってもいました。

              遅い朝刊を読みました。
             歴史が教えていますが、ある思考の人々は、昔の知恵を、自己に都合よく
             使う癖があるようです。焚書の一つにしても、手前勝手に使いこなします。
             思想弾圧の象徴であるその言葉を、己が考えが受け入れないようだと、
             地団駄して、焚書だと叫びます。己が姿を何と考えているのでしょうか。
             いつもの正論なることばに閉じこもっているのでしょうか。
             しかも、仕組まれた方法で、特定個人を攻撃し始めます。
             それも、仕掛け人は曲がりにも法律を学んだ人物らしいので、確信犯的な
             狙いと分かります。陰湿な流れの動きです。
             だが、人々は、決して受忍はしません。
             軸は、いつも大いなる事にその基をおいていくことです。

              ・・・最後に人知れず ほほえみたいものだ・・・ 


            
                  8月15日(月)午後00:45

              国に殉じた人々のため、今日の平和があるわけで、そういう意で参拝
             しました。本をしっかりと見つめない人々の高言です。
             人々を、ある方向へ仕向けていった国体の犠牲になった人々の血のお蔭で、
             曲がりなりにも60年の間、平和を維持して来れたのが実相です。
             その平和を生かしたのが、自国基本法にあることは自明のことです。
             過去の時間をまともに見ることの出来ぬ考え、思考過程など、上っ面の
             平和で糊塗するようです。

              終戦末期、出陣学徒の歓送会での激論の記事がありました(朝日)。
             君はそれでも日本人か、との問いに、いや、まず人間だよ、との言い合い
             があったそうです。当時の学生のある時間を、紹介していました。
             ああした切羽詰った時世においても、しっかりと自己を見つめていた人々が
             いたことに、自国の良心を覚えます。
             こうした学生、学識などの言葉の前では、当世流の見かけ平和貢献論など、
             実に淋しい薄っぺらな言い草に聞こえてくるようです。

              昨日、盆の中日に高千穂之峰に登りました。
             久しぶりの登山でした。46年ぶりの登りでしたが、時間の空白など少しも
             感じませんでした。ただ、疲れたことは確かです。
             夕方、母を見舞って、山にいってきたよ、と話すと、また黙って登ってと、
             笑みしていました。子供のころは、よく、ちょっと公園に行ってくると言って、
             高千穂の山で遊んだものでした。


             お鉢 2005年8月15日(月)


             
                  8月13日(土)午後08:50

              旧盆を一人で迎えるのは、怠け学生の時以来です。
             親爺の入院来、お袋の骨折入院と続き、お盆を肌身で覚えた一日でした。
             高齢者を高齢の者が介護・看病する現代的普通の趨勢を、身をもって体験
             しつつある蛙のこの頃の身の上です。
              昨晩、日課になっていますお袋の見舞い方々、汚れ物を取りにいったおり、
             お墓の花はどうしているかと、聞かれて、ああそうだったと、やっとのことで
             思い出したことでした。
             今朝方、早速墓の花屋さんに電話して、花の準備を家の仏壇用と一緒に注文
             しました。墓掃除は、いつものことで、草をむしったり、あたりを掃いたりと、
             手際よくすまして、線香を煙らせました。
             ところが、仏壇は、日頃、掃除どころかあまり気を掛けていないため、精霊棚の
             お皿や、お水取り等の汚れを落とすのに大分時間をとられました。
             しかも、お迎えする霊のための供え物を、全く準備していませんでしたので、
             先日、見舞いに貰った菓子をとりあえず供えることにしました。
             だが、世は満ち欠きに不都合はなく、その穴はまた埋められたりもします。
             ありがたいことに、グアバ茶の生産者の方から、大きなキュウリと、パッションフルーツ
             を頂きました。おいしそうなみずみずしい果物ですが、先ずはご先祖様からと、
             菓子にかえて棚に献上しました。
             ろうそくを迎え火よろしく、線香を燻らせて、無事盆入りを終えました。

              近ごろ妙なことが、ひっきりなしに続くようです。天下りと天上がりは同義語との時世です。
             民営化は、官営の業態化ですが、政治家の世界では、ますます官営化が進むようです。
             対抗馬に、数字の計量に深甚なるところりありとの触れ込みで、気鋭(胡散臭い言葉です)
             なるかどうか知らないですが、人気官僚を選ぶ図あり。
             二代目官僚の政治家志向の趨勢あり。
             まるで、言うところの官僚組織は、政治家の温床と化した風情です。
             どこに小さな政府とか、無駄の削減等があるのか、ほんにつまらぬ風となったものです。
             官僚脱の政治が、偽りにある証でもあります。情けなきまつり事です。
             懸命に勉学した果てが、時の権力の僕になることであったとは、さびしき学びです。
             立身出世は悪いことではないですが、その根本が、学びの基を忘れたそれなら
             恥ずかしい生知恵です。世事を上手く生きることがまつりに通じることでもあるのだろうか。
             基が本当に確かなら、より人々に大事なことをまつりの要として、一まつり補助者として
             力を発揮する筈ですが。補助者が有頂天になったらお仕舞いです。
             報じられる切れ者などの言葉ほど人を誤らせ、堕することはありません。
             人は、たいした事は、そんなにしっちゃいないもののようです。
  
              都会の田舎の動きは、むかし公安、いま教育委員会なる言葉がぴったりの様相
             となっているようです。でも、そのメンバーはもともと・・・うーん。
              
              
              きのう、田舎の家庭で栽培された、ごうや茶を貰いました。
             普通の急須で煎じて飲みましたが、意外とうまい味わいでした。
             ごうやの量を変えて、煎じて試しました。
             少ない時は、湯冷ましに味がついた程度でしたが、量が増えるにつけて、
             ごうやの美味さが出ていました。独特の苦味を苦にしなければ(そうたいして苦い
             ことはありませんが)、暑い時節にぴったりの飲み物に思えました。
             よく味合えば、甘さも感じられます。流行言葉ではありませんが、切れとこくがありました。
             特に、スポーツをする人々には、格好の喉の癒しになると思います。


             田舎見聞録 2005年8月13日(土)


             
                  8月11日(木)午前00:15

              戦争と平和のどちらを選びますか

             答え 平和:90%  戦争:5%  わからない:5%

              人々は、ほとんど平和を望んでいるではないか、
              わたしの持論が正しかったことだ。
              その平和を守るために、軍備を確固たるものにし、
              同盟国が危うければ、直ちに集団的安全のため、
              つまり平和のために、軍隊を派遣するのが自国の
              努めだ。世界平和に貢献する所以でもある。

             *この記事が書かれたのは、約紀元前350年であったらしい。
             当時の、修辞家としてのまつり人は、民主主義を守るため、
             大衆に、よくこうしたアンケートを問うたり、二者択一の選択を
             求めたりして、その結果を多数決として、まつりの基としていた
             そうである。
             大衆には、その問いや、選択が、なにかしら重大なことである、
             と錯覚させられるような、修辞、それも単純なフレーズの言葉に
             目を奪われ、中身など、知ることも少なかったそうだ。
             重要な事を訴えるより、事の白か黒かを問い、それも誰でもが
             常識として持っている考え方、良心に、繰り返し訴える方法が
             良くとられ、それが一般的なまつり事と化していたみたいである。

             ああ、思えば、わたしも、もう少し早くから、修辞学を学んでいたのなら、
             このような辱めを受けずに、研究に専念できたろうに・・・
             ふん だれがシンリを放り出すもんか
             くそ われにあと少しの金と自由があったなら
             このような恥ずべきことは・・・ ああ もう考えまい
             いまは 対話 に専念して後世の世に判断してもらうほかあるまい
             権力は いつも 二つに一つしか判断をゆるさない


             *註:天文対話の科学者の愚痴より抜粋。その資料は現在不明とのこと。
                 (蛙随想8月号より転記)


                
                  8月9日(火)午前01:15

              ついぞ最後まで、その内容が不明瞭なままで終わったようです。
             ワンフレーズまつりとは、よく言い得ていて、それ以外のものでは無いようです。
             おのれの志と、ある地域のマネー操り組織意思が、ひょうんなことから道半ばで
             手を結び、しかも約束したのだから、とても簡単には引き下がることは出来なかった
             のでしよう。
             必死の形相が訴えるのは、単なる民か官かの上っ面の言葉のぶっつけ合いに終始
             していました。内容などどうでもいいようです。
             これまでの民化が、どれほど人々の経済を活性化したと考えているのだろうか、
             普通の経済活動にある人々には、じりじりとその首を絞められてきたのが実情です。
             言うところの自由経済、民経済の活性化とは、要するに金持ち父さん、貧乏父さんの
             舞台の幕開けにしか過ぎません。
             自国も、ようやく盟主の唱える自由主義経済になったと自負する大臣など、どこを見て
             ものをいっているのか不思議な経済学の人です。
             自己責任の経済学、要するに弱肉強食の市場を目指すのが、その目的にあるようです。
             自国の将来と経済にとって大きな損失と、よく言えたものです。
             いいかえれば、無国籍自由マネーの縦横無尽な、なすがままの市場経済、日常経済の
             出現が、その希望の国であるようです。
             名前だけの民は、泥公団だけみても直ぐに分かることです。巨額の自国の金が、勝手に
             、しかも暗黙に、うの目タカの目に献上されることです。貢献意思そのものです。

              誤報にもいろいろあります。
             問題があったとすれば、その建前にあった、ということでしょうか。
             それとも、原爆あるまじき願い、平和の思いが、なにか政治的と判断せざるを
             得なかったのであろうか。不思議な夏の出来事でもあったようです。

              好きなところ、嫌いなところ、それぞれの中にいての声です。
             自分の居たところの声が好意的、あるいは、そうした事に関心はなかったようです。
             と、の意見があります。
             でも、その声々が、自らに好意的に響いたからと言って、その真偽、過去の時間が、
             正当性を与えられたことの理由とはなりません。
             日本人にも、良い人、悪い人がいる。また他国にも、良い人、悪い人がいる。
             本当に歴史を、客観的に見ることの難しさをしめしてもいたようです。


             砂風呂 2005年8月8日(月)


             
                  8月7日(日)午後01:30

              未明、雨の足音に目を覚まされました。
             サボテン、黒法師等を外へ出しっぱなしにしていたので、心配でしたが、
             幸い、雨はひとしきり降ったら満足したのか、止んでくれました。
             
              恒例の行事ともなると、それまでの形式、建前に沿うのが普通の世間常識
             のようです。それが一般的なのだろうと思いますが、ちょっぴり腑に落ちない
             処理のしかたにも思えました。
             若者は、フエアープレーとはなんぞや、世間の常識がどのような縛りと、建前に
             あるのかも純な心に学んだことでしょう。
             でも、広島球児の心の思いは、多くの人々へ確かに届いたはずです。
             このささやかな勇気と行動は、これからもしっかりと身につけていってもらいたいです。

              盆地出身の皆さん、昨日盆地祭りがありました。
             ひと頃の賑わいはありませんが、それでも大勢の人々が歩行者天国を楽しみました。
             お盆の帰省のおりには、懐かしいお店などへ顔をのぞかして見てください。
              また、現在、市内の有志のお店の皆さんが、一店逸品フエアを企画中です。
             パテイオの隣のランプ屋さんからの聞き伝えですが、盆地在住のみなさんはもちろん、
             県外から田舎にお帰りのときには、こうした新しいお店や、企画も楽しんでください。
              たまには帰っきゃん!!


             初雪草ととうもろこし 2005年8月5日(金)

             盆地まつり 2005年8月6日(土)


            
                  8月5日(金)午前01:50

              きのう東北地方の梅雨が明けたとのことでした。
             盆地でも、晴れた夏の一日となりましたが、台風9号の前触れが、時折町を
             吹き抜けて、秋の気配さえ感じられた一日でした。
             この梅雨と、夏は、それらしき装いも覚束なく、あれっと過ぎていくようです。
             そうした移ろいでしたが、西瓜と里芋は豊作であったそうです。
             なかでも西瓜は少し過剰気味にあるとの声も聞きました。不思議なものです。
             成長の肝心な時に、気候が折り合えば、普段の天候はあまり影響はないの
             かも知れないとさえ思えました。
              
              イリオモテ山猫は、多彩な食生活にあると報じていました(琉球新報)。
             環境適応能力が優れているネコ科のようです。その時の天候、季節に順応
             して雑食、食通にあるとのことでした。ライオン等と違って、哺乳類だけの餌で
             はないところにその逞しさがあるみたいです。もっとも餌の一つである蛙は
             大好物の部類に入るようですので、少々胸が痛みました。

              同心円は、その中心を同じとしながら違う半径の円のことと、大体皆知って
             います。また、その各円のボリューム、その円周は同じようで異なることも
             大体理解しています。
             外側にある円は、内側の円をも内包するものであり、その成り立ちを良く
             知る過程にあります。ところが内側の円は外側に円があることを知るどころか、
             その円が絶対だと錯覚しがちです。
             だが、二つの円は相似のなかでの円論です。円論を生かす軸にはあまり関心
             は無く、その知の夥多の如何にしか興味がないように言を弄します。
             無数の円を生かす軸を、人は絶対無限と言い換えたりもします。
             その軸ははかり難いことでもあります。でも、それを観得することはできます。
             有限であるからこその、心の成長過程での軸の観得、体得(体観)であります。
             それを人は大慈悲ともいい変えて来ました。常ならぬモノに対する憐れみの目
             の心を知る時でもあります。白鯨の船長の一滴でもあります。
              そうした空にある時間において、人を訴えるとは、狭い傲慢な料簡にある証拠
             です。もっともその空さえも覚えない人ならばこその、人の長い営みを知らぬ
             歴史観といえるでしょう。
             この例にあるさびしき貶めは、その言の感性が心に触れるかどうか、つまり人の
             言葉、考え、思想、が時に耐えうるか否かの違いにあるようです。
             その人を訴える人の感性など、恥ずかしい同心円の小さな円の類です。

              それにしても、ジャーナリズムとプロパガンダの区別さえ知らぬとは・・・


             葉月 2005年8月4日(木)


               
                  8月3日(水)午前01:15

              基となるルールに、施行細則もどきの文言が入ると妙な事になります。
             曰く、何々のためには責務がある云々。
             基本の法は、これまで人が長い時間の中で培ってきた人の力(人権)を根底に
             してこその法であります。そこには当然、個々人の相手をおもんばかる心が
             すでにあります。つまり互いに責任をもったルールにあることを前提にしてあります。
             何を勘違いしたのか、この頃になって責務などと言い出すのは、人々を低次元の
             規則に縛りたいのが、その隠された意でもあります。
             意図されたモノのための慎重且つ思惑に満ちた、ある前兆の過程操作にしか
             過ぎないようです。
              この改変過程で、一番のポイントは、軟性と硬性にあります。
             軟性が、一般的なのが各国における現状でもあります。
             それゆえ自国の硬性の理念は、誇るべき人間の知恵が凝縮されているとも言えます。
             始めは、賛同を得易い、全体的トーンにあって、一旦思いが叶うと、容易く、本来
             意図する方向へ改変しうることになるのですから、実に危うい考えにあります。
             時代に合わないから変えるのは普通であるといいます。
             基が、人にとっていいことであればあるほど、その理念を一層日常に浸透させていく
             のが、為政者の務め、義務です。また、それを対外的に率先してこその、本来の外交
             です。
              軟性の真意を見抜くことが大事なことです。
   
              ・ だれでもが納得する草案などとの声が流れます・・・。
              
              ・ 勘違いし易いのに、人種差別、異文化差別に対する考え方があります。
              政策的に平等にあれば、それらは解消されたと思い勝ちです。
              でも、人の心に知らず沈殿した記憶は、その人個人の問題としてでなく、
              歴史的問題として、個人の心に住み着いています。
              蛙は1943年に生まれましたので、戦争末期の誕生でもあります。
              まして、隣国の人々に対する蔑視、違和感など覚える暇はなかったはずですが、
              それでも世間的心を覚え始めた子供心には、誰に教わった訳でもないのに
              チョウセン人、シナ人、チャンコロ、等との後ろめたい言葉を知っていました。
              おおまかな例ですが、白人と有色人における心の真奥には、個々人の経験
              としては、知らぬ、覚えぬ、筈の過去の記憶が綿々と刷り込まれています。
              それは、アジアにおける自国の人と他の国の人の関係においても見られます。
              いわんや、西欧の人と中東の人との関係においてもそのようです。
              テロの問題を、寛容と非寛容、多文化主義と同化主義、政策の自己撞着などとして
              とらえるのなら、その心までも至らなければ、皮相的な論に終始するものです。


           
                  8月1日(月)午前01:00

              第10惑星が発見されたと朝刊記事(朝日:7月31日)にありました。
             その惑星認定では色々と問題があるそうですが、約560年の周期で太陽を公転
             しているとのことです。宇宙的時間では、ほんの微かな時間周期ですが、地球上に
             生きる物にとっては、大きな時の刻みに思えます。地球近辺の空間では、野口さんが
             その役目をこなしているとのことです。無事の帰還を願っています。
             宇宙船地球号を、せめて冥王星の位置から何時も眺めていたら、この地の争いごとが
             実につまらぬことに映ることでしょう。ああ、あの点にしか見えない地で、性懲りも無く人の
             勝手な振る舞いが演じ続けられていることかと・・・これも有限にしか過ぎない命にある生き物
             の、自らの死を忘れるための、大いなる力の手管、大いなる慈愛なのかも知れません。

              日が変わりました。一昨日(7月30日)九条の会有明講演会に参会しました。
             普通ならとても行けないところでしたが、海外出張機会の多い弟のマイレージを利用して
             どうにか参会できました。博多に出かけるよりも、ずい分と費用は少なくてすみました。
             ありがたいことでした。
              会は、盛況でしたが、若干キャンセルがあったみたいで、参加者は約9,500人であった
             とのことでした。それにしても人々の時世に対する静かな底からの怒り、危うい感を、肌で
             覚えました。特定組織のイニシアチブではなく、九人の考えに賛同する人々の集まりです。
             いわば素人の止むに止まれぬ思いを集約した会でありました。


             輝き(九条の会有明講演会) 2005年7月30日(土)